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日本の装身具ハンドリングゼミ 第10回

ここでは、会員のゼミでの感想や気づいた点、意見、お寄せいただいた図書資料情報などを掲載します(順不同)。


河西 志保さん

 私は、ダイヤモンドが最初日本で大きく知られるきっかけになったのが小説だとは正直驚きました。それに熱海の寛一・お宮の話の中に出てきて有名になったとは思いもよらずです。当時テレビがない時代ですから納得です。日本の宝石の歴史を面白く知ることが出来ました。
 また、明治から戦前の昭和初期に推定50万キャラも日本にダイヤがあったとはこれも驚きです。祖父母は宝石メーカーで母より戦時中は軍事工場をしていた話を聞いておりましたが先生のお話をお聞きしてこちらも納得。昭和36年まで宝石の輸入が禁止だったから、シンセチックなどの合成石が代用品だったことも知り、祖父母の裏庭に山のように置き去りにされていた意味がわかりました。
 また、以前から宝石が日本で普及したのは東京オリンピック以降だと知っていましたが、オリンピックのお蔭だと思っていました。輸入禁止が解除になったことによるものだった
とはまた日本の宝石の歴史を学びました。
そして、金色夜叉の絵より、着物の半襟の合わせ部分を飾る襟留というお洒落があったとは勉強になりました。着物だとジュエリーは帯留めと指輪くらいですが、これは現代もブローチなどで使える着物のコーディネートの参考になりました。
そして、ハンドリングゼミでは藤田君代コレクションを手で触らせて頂き、手の感覚で感じることができ感謝致します。そして、変わり塗り櫛の作業工程をしっていらっしゃる生徒さんがいらして、層の厚さと個々のスペシャリストの方達がお見えになっているゼミだと感じ、一層ゼミに通う楽しみが増えました。
とくに中でも、KF−10の吉祥文様蒔絵簪からは、品位を感じ側面にこだわり人から見られる美しさをポイントにしているこの簪から、いつの時代も見られる美しさにこだわる方がいたのだと感じました。
今回も驚きと納得の連続でした。本当に楽しく学べるゼミを有難う御座いました。

  鈴木はる美さんからのコメント

河西志保さんが感動された襟留を描いた日本画があります。少し見えにくですが、花嫁の隣に座る女学生らしき (当時、女学生には、リボンが流行した)女性(向かって右端の蝶の絵柄)の女性の衿に注目。彼女は、当時流行したくさり付の時計を着物の上から装着する。鏑木清方画 明治40年(1907)絹本着色、軸装 H1828×W1154mm 鎌倉市鏑木清方美術館蔵  『ジュエリーの歩み100年』美術出版社2005年 露木先生も執筆なさっている本のp.74
4年前に、展示を確認して、鏑木清方美術館で観賞しました。特に指輪を調べたかったのですが、襟留とくさり付の時計に目が行きました。5人の女性達がいくつ指輪を嵌めているかを本物を見て調べてみて下さい。
大きな軸装なので判ります。いつも展示しているわけではないので、事前確認の上ご覧下さい。

なお、同美術館で「金色夜叉」の挿絵展をした事がありましたが、その際に展示された、熱海の海岸の名場面(官一がお宮を蹴る場面)
の官一は、ほう歯の下駄で、お宮さんを蹴飛ばしていました。新派の場面と同じです。露木先生が掲載された図は、原作通りの靴でしたが・・。 

                             



吉田 明泰さん

『金色夜叉』に関するご研究の成果、大変興味深く伺いました。

その中で、「金剛石」の大きさについての話が出ましたが、クラリティについては言及がありませんでした。

何年か前(私の切り抜きのファイルがうまく整理されておらず、いくら探しても見当たりません)、家庭画報か婦人画報に、先日亡くなられた塩月弥栄子さんが、「母の形見のダイヤモンド」というのを公開されていました。
ダイヤモンドは、大きなものの、素人目にもSI以下のかなりがしゃがしゃしたダイヤモンドで、装着して歩くにはちょっと度胸が必要です、というお品物だったので、ちょっと驚いたのを覚えています。

類例を探してみたところ、1つみつかりました。松井英一『宝石・貴金属の選び方 買い方』という本の扉の写真です。
日銀ダイヤの買い入れ〜再鑑定などに関わったダイヤモンドマスターの著述ですから、これ見よがしの名品の写真がのっているかと思いきや、このような具合です

『金色夜叉』や、戦前・戦後直後のダイヤモンドの「いいもの」あるいは「普通のもの」というのが、今のGIA基準で言うと、いったいどういうものだったのか、にも興味を持ちました。

蛇足ですが、この本の中に、講義で話題になった、皇室のジュエリーやピアス、日銀ダイヤについての話が載っていたので、参考までに引用させていただきます。

P71耳輪はおもに終戦後流行したものです。戦前は支那服を着るときつけるくらいのもので、わずかしか売れなかったものですが、戦後は耳輪なしの女性は一人もいないくらいにはやって、それが板についてきました。

P223 ロンドンに「マッピング」(現在のMappin & Webbか?)という有名な宝石商があります。かつて日本と英国とは同盟を結んでいましたので、日本の皇室の持ち物はたいてい宮内省がその店に注文したようなわけで、相当高級の品物があったのです。ですから私ども非常に期待していたのですけれども、それほどのものがないのでがっかりしました。やはり英国は斜陽の蔭がこいなという感を深くしたわけです。
[ロンドン訪問前、パリ・カルティエの本店を訪問し、以下のような感想を述べています。今の私たちからはとても想像できないジュエリー文化の大きな壁が、わずか50年前にはあったのだなあと思うと驚きます。/P220そこの「カルチエ」という宝石商は世界でも有名な店なのです。(中略)もう私たちはそのウインドだけで圧倒されて、とても中に入る元気をなくしてしまいました。]

P227 私は現在、ダイヤモンド界の王者といわれているハリー・ウイストン店を訪問したのです。ここは小売と卸、そしてダイヤモンドの研磨加工と高級装身具の製作をしていて、従業員は三百人もいます。
三年前、戦前供出したダイヤモンドが日本銀行に保管されているのを全部一手に買おうとして来日したウイストン店の支配人と私は面識があったので、今度の旅行で立寄るから通知しておいたのですが、早速電話で連絡したら、すぐくるようにとのことで私たちは出掛けたわけです。

P245 (供出されたダイヤモンドの中には)皇室の王冠もありました。軍需省の方から、宮内省から王冠が下賜されたから見に来いというので呼ばれて、行ってみますと、王冠があり、ダイヤモント゛を取り出してくれというわけです。それは明治時代の皇后のものです。王冠だけでなく、宝石類も供出なさったのです。私はそのときもったいないと思った。また実際問題といし工業用としては三カラット以上の大きいものは必要ないのですから、大きいもの三個か四個、其他が小さいのもみんなとりはずしてしまって、大きいのはお返ししたのです。

※吉田明泰さんからは前回のケンドルビーについての追加の考察をいただきました。
 こちらからご覧ください。



宮坂 敦子さん

藤田君代コレクションでは「撫子図蒔絵笄」が印象に残りました。
細長の笄の左側に撫子、右側に見晴らし台(?)を描いた決して豪華ではない笄ですが、その間の木目模様とあいまって、空間の広がりを感じます。見ていてなんだか添付の錦絵を思い出したのですが、この錦絵なみの風景の豊かさがこの細長い中に感じられるなあと思いました。
テキストでは、明治後期のダイヤモンド指輪の「爪」の話、『金色夜叉』の中に記載されている「ごまめの目ほどの真珠」の話が印象深かったです。



角元 弥子さん

今回も前半後半ともに興味深く、挫折していた『金色夜叉』に再挑戦してみようと思いました。

時代背景とともに解説いただく日本明治期の装身具史は面白く、日本人のライフスタイルが激しく変化した時代に、人の情報欲、所有欲がエネルギーとして感じられるようでした。

藤田君代コレクションの中から、ゼミで話題になった吉祥モチーフ「蓑(みの)」について。

ゼミの後、兵庫県姫路市の「日本玩具博物館」で、明治期にお守り入れとして使われていた、蓑をかたどった袋物を見ました。
「初宮参りの守り袋 隠れ蓑の巾着 <明治末期>」
解説によると、蓑はそれで身を隠すことができることから難から身を守る、中国由来の吉祥紋様だそうです。 いくつか展示されていた、蓑をかたどった袋物は、子を持った親が初 宮参りの際に、お守り入れとして携帯したものそうです。

余談になりますが、現在こちらの「日本玩具博物館」では「ちりめん細工の今昔」という企画展が行われています。
蓑の形のお守り入れも、展示品の一部だったのですが、生活芸術品のレベルの高さが伺えます。 ゼミで露木先生がおっしゃっていた、「日本では伝統的に、装身具は機能を 持つものだった」というお話が、まさにあてはまります。
身を飾り、見せて、競うことが主目的でありながら、機能を失っていない、本物の細工物がたくさん見られます。お勧めです。

日本玩具博物館 公式サイト

次回も楽しみにしております。どうぞ宜しくお願いいたします。



齋川 陽子 さん

長い歴史のなかで、独自の文化を刻んだ日本。その歴史ある着物文化のなかで、やはり人々は装飾を楽しんだ。その装飾は、存在感の大きな着物を飾るものより、大きな黒い髪に似合う簪、櫛が大きな役割を果たした。
その装飾としての櫛、簪。
前回、今回とハンドリングさせていただくことにより、 どれだけ繊細に作られているか、 何度も丁寧な過程を経て作られているか、 そして時代や身分により流行りがあること。
ハンドリングすることにより、大変近くで鑑賞させていただき勉強になりました。

ハンドリング最後の15番。
清朝のサンゴ飾り簪
こちらは江戸後期に流行ったビラビラ簪の種類にはいるのかと思います。ただこの独特の華やかな簪は、 文化、文政に三都(江戸、京、大阪)で流行ったとのことですが、文久中になると全く使われなくなったととからも、流行りのニュアンスがかなり強いものかと感じました。(参考文献、世界の櫛 ポーラ文化研究所)
また、もうひとつ気になったのが、日本髪を結うときに使われる油。
こちらは平安時代から椿油が主流だったようです。髪をお手入れするもの以外にも、食用、灯火用としても使われました。
こちらはベタベタとし、独特の臭いがあったようです。
お相撲さんが大銀杏を結うときに使われる鬢付油はハゼの実が使われ、カチカチに髪が固まるようです。

この独特の髪型の文化も明治になり西洋の髪型の清潔さ等を知るようになると、明治18年に婦人束髪会ができ、日本髪から西洋の髪型を、推奨する動きがでたようです。

日本の数少ない装飾品から日本の文化を紐解いていく。
まだまだ奥の深さを感じます。

ありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。




鯉渕 みどり さん

作品を触ることにまだとても緊張しましたが、じっくり見ることができて貴重な時間を過ごさせていただきました。
抽象的な絵柄の作品と、道具や人物などを描いた作品のどこかコミカルな絵柄が対照的で面白く拝見しました。
また清朝の簪は日本のものと全く違い、大陸的というのでしょうか、華やかなアクセサリーのようなデザインが印象的でした。
露木先生と参加者の皆様のお話を伺い、色々な角度から作品を楽しめるように少しずつ勉強していきたいと思います。
次回をまた楽しみにしております。


鈴木 はる美 さん

第9回と10回は「藤田君代コレクション」であった。露木先生のコレクションは、教材といての意味があり、後世の人達へ残すものとして収集された。それに反して「藤田君代コレクション」は女性の視点から興味をもったものであり、美しく、珍しく、そして制作された時代性があった。図柄には、物語り性を深く感じる。

今回気になった作品No.KF―08 文様ちらし蒔絵櫛笄@であり、図柄と文字の「松風」に注目する。

約2年前、京都・細見美術館の「櫛簪おしゃれ展」会場にて、酒井抱一筆の「松風村雨図」の掛け軸を観賞した。抱一26歳時の肉筆画は、江戸後期の琳派画家というよりも、繊細で美しい。「松風」と「村雨」の顔に視線はとまり、そして大きな櫛に視線は写った。(図参照

さあ、KF−08の櫛のくっきりと金泥で描かれた「松風」が気になり、能「松風」を調べる。

「松風」はもともと田楽の曲であったが、観阿弥、世阿弥が改良を加え、能の「松風」になった。能「松風」の舞台には1本の松の作り物がだされ、西国行脚の僧が、風情のある松に目をとめ、所の者に尋ねると、これは「松風村雨」という昔の悲恋の乙女達の記念の松だというのでその前で弔いをしていると日もくれてきた。高貴な血筋の者がわけあって侘びしい生活をいているという「貴種流離譚」だ。『源氏物語』では、行平中納言が須磨に流されたことを下敷きにして須磨の巻きを作り、能「松風」ではその原型となった行平中納言の流謫(るたく)に伴う後日譚として作られた。この行平中納言に同情して世話をした乙女は姉と妹の2人で、姉は「松風」妹は「村雨」であり、ともに行平を愛し、愛されてしばしの須磨の時代を過ごし、やがて行平は都に召し帰されてしまう。残った2人の乙女はその後も須磨の浦で汐を汲みながら、一、行平の面影を抱き続けて生涯を終える。能の中では姉の松風は狂乱する。

露木先生は「量産品であり、江戸後期の年増が愛用したのであろう」と講義の中でおっしゃった。櫛には雪輪模様に似た絵が7枚、笄には6枚描かれる。この文様と能の「松風」の接点があるやなしやと調べる。

磯田湖龍斎描く3幅の「松風村雨図」には、汐車を引く「松風」と「汐汲み桶」を天秤棒で左右に支える「村雨」が描かれる。帯には龍が描かれ、海女である逞しい女達と比べて、貴族姿の行平のたおやか振りが、少々気に入らない。しかし、行平の立烏帽子に扇子を手にした美男子振りにはうっとりする。浅沓に狩衣姿の下履きの文様は、KF−08の櫛・笄の図版と同じである。これは、能・歌舞伎・義太夫・文楽などで演じられた「松風」ファンの女性を対象にプロジュースした櫛笄セットであると限定する。「松風図蒔絵櫛笄セット」と名付けたい。

参考分献

馬場あき子著『能・よみがえる情念』 檜書店 2010年

別冊太陽『能』 平凡社 1978年

『櫛簪とおしゃれ』紫紅社 2013年


岡本 有紀子 さん

今回も参加させて頂きましてありがとうございました。
櫛や簪を直に手に取らせて頂き、表面の質感や細部までじっくり味わうことができるとても貴重なひとときでした。
露木先生、そして様々な分野で活躍されている参加者の皆様の意見や感想はとても参考になり、一つ一つの作品の奥深さを感じます。
特にKF-07の曳舟の櫛は、皆様の感想で盛り上がりましてから関心を持った作品です。
当時の生活の様子がわかる資料にもなって、いろいろな憶測が楽しい櫛でした。
また明治時代中期の装身具のお話からは、一般国民にダイヤモンドの名前を広めるきっかけを作った金色夜叉の影響の大きさや、照明の進化によって、ジュエリーの好みや価値が変化していく時代の移り変わりを知ることができました。
今につながる日本のジュエリーの歴史の一コマを、小説や広告から検証したり、時代背景と絡めて考えていくことで、ジュエリーに対する新たな知識が高まります。
ジュエリーが日本人の生活に入ってきてからまだまだ歴史は浅いですが、その存在や価値は短い時間の中でも大きく変わっていっています。
ジュエリーを扱う者の一人として、ジュエリーが時代と共にどのように変化していくのかをこれからも興味深く見ていきたいと思います。
次回もまたよろしくお願い致します。



山岸 昇司 さん

前半の「金色夜叉」のダイヤモンドに関して、今回ほどの解説をお聞きしたことが無かったのでたいへん興味深かったです。日本のダイヤモンド史において重要なビックイベントの一つである「金色夜叉」、戦前の日本国内に多くのダイヤモンドを在庫させるきっかけとなったことがうかがえました。

 広告文に18金1ctダイヤモンドリングの爪が10本、2ctが12本と記述のあるのは、細い爪で石留し石その物の美しさを際立たせる「宝石を身に纏う」ことに主眼をおく基本構想で、造形美を主とし宝石を引き立て役として楽しむ構想は明治期にはまだ発生していなかったのでありましょうか。

 「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる大正7年頃に作られた「新金色夜叉」の歌は熱海が当時、東京近郊の最大のリゾート地であった事を考えると結果として最高に成功したマーケティング手法であったのではないでしょうか。

マレー大佐事件のお話も興味をそそりました。米軍、日本政府の絡むお話ですから大方は闇から闇に葬られるのが常で唇寒しにならぬよう、沈黙は金ということになるのでしょうがなにせダイヤモンド小さくても資産性換金性のある物質、一握の砂では糊口を凌ぐことすらできませんが一握のダイヤモンドなら資産が国家間をすり抜けることもできるのです。

後半は 前回に続いての藤田君代コレクションをメインにハンドリングさせて頂きました。総じて使用された感に溢れた品々です。経年変化で刃先がわずかに歪み、刃先の塗りが使用の擦れで下塗りが見えて、と人の温もりが伝わってきました。

KF−05 変わり塗櫛
蒔絵の研ぎ出しで、思わず若狭塗の箸を想起させました。今に続く伝統の塗りなのでしょうか。
KF−07蒔絵櫛
金色の曳舟図、舟に寛ぐ男と女、舫い綱を引く下帯姿の二人の男それぞれの表情が細かく面相筆で書き込まれていて何とも楽しい図柄でした。果たしてどなたが愛用したのでしょうか。
KF−10 吉祥文様蒔絵笄
横面に吉祥紋「七宝」、星の処にサンゴを配して何とも粋。さりげないおしゃれを楽しまれていたのでありましょう。
KF−12 撫子図蒔絵笄
透明漆で仕上げてあるのでしょうか、木肌が見えて私好みの構図です。
KF−14 百合簪
銀素材で百合の部分が鍍金してあります。銀材部分が磨いて輝いていたらなんとおしゃれな簪でありましょうか。会員のおひとりが百合はキリスト教では云々と感想を述べられていましたが文様やモチーフに造詣があればもっともっと物事を深く理解することができるのだな〜と感心した次第です。

――――――ここからはウィキペディア ユリ からのコピーです――――――

ユリは聖書にしばしば登場する花のひとつである。新約聖書「マタイによる福音書」には「ソロモンの栄華もユリに如かず」とあるが、これは、人間の作り上げたものは神の創造物(自然)には及ばないことの比喩である。ただし、新約聖書時代のイスラエルでは、ユリは一般的な花ではなく、この場合のユリは野の花一般のことだと考えられている。
キリスト教においては白いユリ(マドンナリリー)の花が純潔の象徴として用いられ、聖母マリアの象徴として描かれる。天使ガブリエルはしばしばユリの花をたずさえて描かれる。これはガブリエルがマリアに受胎告知を行った天使であることを示す図像学上のしるしである。
―――――― ここまで ――――――

KF−15 清朝のサンゴ飾り簪
石に興味があるので、素材にまず目がいってしまいます。サンゴは天然のようですが途中に入っている水色の丸玉と茶色の透明カット物はガラスです。これが制作された頃、ガラスはどのような評価であったのでしょうか。今でこそ一般大衆化したガラスですがギヤマン・ビードロの時代はどのように扱われていたのだろうかと思いつつ拝見させて頂きました。


青木 千里 さん

今回の露木先生の講義の中で心に強く残った事柄2点。

1)正倉院には宝石(ダイヤ、ルビーetc.) は無い。大陸から入って来ていたが、 日本人はそれらを美しいとか価値のある物とは認めなかった。
素材ではなくデザインや加工技術を重視していた。

 正倉院に宝石類が無い理由を物自体が入らなかったか、初期は武器庫としての役割を果たしていたという説がありますので、武器ではない物は収められなかったのかと解釈していました。
連綿と続く日本人のモノづくりの精神を思い起こせば露木先生の言葉がすんなり呑み込めます。一枚の銀板はそのままでは何も生みませんが、創意工夫を凝らし加飾すれば何倍もの美、感動、次の利益をもたらす。
日本人のそういった志向が金色夜叉の富山のダイヤも成金趣味と感じる訳かと講義全体に納得しました。興味深いことでした。

2)新時代の照明

 電気事業連合会の HP を見て、「金色夜叉」連載の頃にはかなりの電灯が普及していたことがわかりました。

 「宝石百年」の中でも「ダイヤが夜光るというのでウインドウを見に行った。」
云々の記述があります。ガラスとは比較にならない光の反射に当時の人々は驚いたでしょうし、クラリティーは二の次だったのかも知れません。


小田 晴子 さん

藤田君代コレクションのハンドリングゼミは大変興味深く、貴重な体験ありがとうございました。

前回は、全てが初めてだった為、絵柄や、形状の美しさ、作りの細やかさにただただ驚嘆しておりました。
しかし、今回、『誰かが身につけていたもの』に驚きを感じたものは、KF-07です。
舟を引いてる男衆の同じ赤でも色の違い、風でなびいている様子など。細やかな絵柄。しかし図の内容は?ゼミの中でも話題なりました。
誰がつけたのでしょう。うら若き娘ではないでしょうし、町のものでしょうか。いや、艶ぽいのは遊女たちでしょうか。もしそうなら、彼女達は生きていく為の壮絶なドラマがこの櫛には隠されているのかもしれません。
櫛は求婚にもつかわれ、櫛を投げれば別れの意味。はが欠ける。苦死。と不吉な意味にもなり、まだまだまつわる言葉があります。
いろいろ女の人を彩った櫛は、美しの裏側に計り知れない人間ドラマが繰り広げられているように映りました。
一つのものには、ストーリーやドラマがあり、だからこそ存在理由があるのだと、改めて教えてもらった気がしております。

 


小宮 幸子 さん

藤田君代コレクションのハンドリングでは、直接触れることで、それぞれの作品の厚みや表面の仕上げの感触などを感じることができました。大変貴重な機会に感謝いたします。

私が気になった作品はKF-03(朱漆蒔絵櫛)です。ペルシャ辺りから伝わった唐草文様なのでしょうか、どこかエキゾチックな植物文様が描かれていて、今まで拝見した櫛にはない雰囲気を放っていました。山型にカーブを描く部分に描かれた、日本的な梅の花とのギャップも不思議な魅力になっています。全体的に可愛らしく、若いお嬢さんが使っていたのでは、と想像しました。

今見てもモダンで粋なKF-08 (文様ちらし蒔絵櫛、笄1)、KF-09(文様ちらし蒔絵櫛、笄2)が量産品とのお話には、より多くの作品をみることの大切さを感じました。鈴木はる美さんの感想文に、KF-08は能・歌舞伎・文楽などで演じられた「松風」を意識して作られた、と書かれていたように、それぞれの作品に背景・ストーリーが込められていたとしたら、現代の量産品とは比較できない手間暇とアイデアが込められている、と言えるのではないでしょうか。当時の文化の成熟度も感じます。

また、日本人が好んだ宝石をたどっていくと面白い発見がありそうだと感じていたので、「金色夜叉」にまつわる解説は大変興味深いものでした。照明機器を初めとした社会の変化に伴い、ダイヤモンドの人気が高まっていたことが理解できました。戦前の日本に相当量のダイヤモンドが存在していたことにも大変驚きました。文学作品にはその時代の世相が現れるものです。露木先生がおっしゃったように、文学作品の中から日本人の装身具や宝石に対する価値観を探っていくと、それだけで一つの研究課題になると思いました。


中村 園子 さん

《藤田君代コレクション》

今回も素晴らしい櫛を見てせいただきました。
毎回模様は分からないところもありますが、その模様の意味を知ると髪を飾る櫛という以外にも願いやお守りのような意味も兼ねているのではないかと思います。
6番、8番、9番の泡だったような黒い表面処理は、素材は木なのにまるで金属のように見えて興味深かったです。
14番と15番の簪も面白いと思いました。14番は、日本の百合と言えばテッポウユリ(首が90度に曲がった)を思い浮かべますが、この簪は百合の首が真っ直ぐなので、その頃に西洋の百合があったのか、製作上真っ直ぐにしたのか、少し疑問が残りました。
15番は、大ぶりの目を引く飾りがたくさん付いていてそちらに目がいきますが、葉っぱ(額?)の彫りなど細かいところにも手が加えられているのが印象的でした。

藤田君代コレクションの全体を通して、とても美しい作品ばかりで、センスの良さを感じるのとともに、昔の職人さんの感性と技術を感じ、とても豊かな気分になりました。

 

《明治時代中期 15 金色夜叉》

多くの人たちに広くダイヤモンドが知られるキッカケになった金色夜叉とダイヤモンドの話は、大変興味深かったです。
金色夜叉では、ダイヤモンドは憧れの象徴でもあると同時に成金の嫌みな男が持つものと表現されていますが、地味好みの日本人が成金のイメージをはねのけて、自分もダイヤモンドを持ちたいという気持ちにすぐになったのか疑問が残りますが、それでも石油ランプに照らされたダイヤモンドの今まで見たことのない輝きは、素直に綺麗と思わない人はいなかったのではないかと思います。

当時のダイヤモンドリングの大きさや値段で、どれぐらい貴重だったかが分かったり、その頃のダイヤモンドのカットがどうだったかなども、とても興味深く大変楽しい授業でした。


さとう あけみ さん

明治期最高に読まれた大衆文学「金色夜叉」をとおして見えてくるものがあり大変興味深く思いました。
誰もが知っている名場面、名セリフがある一方、全編を通して読んだことのある人が少ない小説とも言われているようです。(私もその一人です)

文明開化もだいぶ進んだ頃、明治30年に刊行されていますがダイヤモンドにおける西洋の価値観を大衆に植え付ける役割を担ったように思います。
世界のダイヤモンドの原石を買占めて価格を操作し常に価値を保ち続けてきた機関デビアスの創設(明治25年?)からわずか数年あまりでこのような小説が書かれたということに驚かされました。
<ダイヤモンドの価値は上がるという幻想はデビアスが作ってきたものだと思います>

 今日とは違い情報が遅い時代に、しかもアメリカの作家クレーの小説からヒントを得て書かれたという「金色夜叉」、尾崎紅葉は洋書を原文で読み漁っていたとしか考えられないし当時の作家の勉強ぶりも偲ばれます。
そして明治の文豪夏目漱石に影響を与えたという人間関係にも興味が湧きました。

露木先生が指摘されたように日本文学のなかから<文学に現れた宝石>を探し出しまとめることができたら日本の宝石文化があるていど見えてくるのではないかと大変興味をひかれ、じつは今回のゼミではこの視点にとてもワクワクさせられました。
文化の中につねに時代を見るヒントがあると思います。
ジュエリー文化のために超人的に活躍されている先生にお願いできれば一番ですが時間が無い先生に変わってどなたかこの作業にとりかかる方が現れますようにと期待したいです。


沢村 つか沙 さん

金色夜叉とダイヤモンドの話はとても興味深く感じました。
和装から洋装への転換、石油ランプの普及、時代と生活スタイルの変化と共に、人々の物の価値観にも変化した時代であり、装身具としても今洋装で生活している私にもやっと実感がわくようなものがありました。輝く素材は低俗という風習であった日本から、輝きを見につける事への憧れ、ファセットカットされた輝く宝石に魅了されたのは、人が洋装をするようになり、新しいもの新しいものへの関心が一気に高まった様子があるかと思いました。ヘアスタイルも日本髪を結わなくなってからは帽子などを着用するようにもなったのであろうし、櫛は簪、笄が使われなくなったことも容易に想像できます。

異文化への憧れのようなものは、いつの時代も強いものであるものの、洋服と共に海外のジュエリーに人々が魅了されていたのだなあと想像します。そして、洋服が定着しファッションにおいては日本から世界に発信するブランドも確立しているように、ジュエリーにおいても海外の憧れデザインから もう一歩進んだものが発信できる時期なのではと感じています。
洋装生活となった今でこそ、着物を着るという事に特別感が生まれ、70年前とは異なる価値が生まれている和装に対するモダンなジュエリーというのが今度の私自身の課題でもあると確信させられた機会となりました。装身具として洋装に合うのはもちろん、和装で特別に装う場面でも兼用できるアイテムがより必要になってくるようにも思います。

半襟につける襟留は注目したいアイテムでした。検索してみましても現在商品として見られるものではありませんし、今は半襟の中にプラスチックなどの襟芯を入れたりするので、その際には穴を貫通させるわけにはいかないのでは、と当時の着物の着こなしにもより興味がわきました。


岩崎 望 さん

露木先生は、ヨーロッパで底流として存在するジュエリーの性質は財産性とマジカルな力であると指摘されました。昔から宝石サンゴにはまがい物がありました。また、昨今の自然保護運動の高まりを受けて、宝石サンゴを漁獲せずに、宝石サンゴに似た他の材質でアクセサリーをデザインする動きがありました。このような紛い物や代替品について考えてきましたが、露木先生のマジカルな力というご指摘は本質を突くものだと思います。他の物に換えられない理由、本物である必要性が説明できると思います。示唆に富むお話しをありがとうございました。


石井 恵理子 さん

曳舟の意匠、
たくさんのハンドリングから時間が経ちましたが
今なお気になっております

絵的には、花や蝶や家紋と違って綺麗な要素はない櫛に
何故か惹かれ、脳裏にとても印象深く残ってしまっているのは
私だけではないような気がします

多分、その中のストーリー性
そして意味不明な余分とも言える線一本
これは やはり船を引く綱以外考えられないのですが
どの文献の曳き舟を見ても、綱は片側一本でした

もしかしたら作者が後々物議を醸すように仕向けたのか

そんなことを考えながら曳舟の浮世絵や画像を見ていたら
日舞の浅妻船を思い出しました
実際、琵琶湖岸と大津を往来する舟として
江戸時代、遊女が乗って旅人を慰めたと言います

また遊郭で、太夫のために接待役・世話役を務めたのが女郎
太夫を舟にたとえると、これを曳いて揚屋に行く(または帰る)女郎という意味で
廓でいう引舟とは、今の新造、13歳くらいの遊女の見習いのことです

幼少の頃から日舞の稽古に通い
大体の演目で舞台に立ちましたが
白拍子であったり太夫であったりようは遊女

また狂いものでは道成寺、お夏狂乱、蝶の道行、櫓のお七、鷺娘などなど
ぶっかえりと呼ばれる衣装の早変わりとともに
踊っている最中後ろから黒子が簪も櫛も笄も全て外し
乱れ髪になって踊り狂う

一番女性が心を乱して男を想う表現方法が
髪の演出であることは間違いないです

本題、あの簪を身につけていた女性は
生娘でも奥方でもなくやはり男性を相手にした生業の
それもそれを誇りに生きていた女性であると私は思います

そして、一つの簪を巡ってこんなに皆様とお話が弾むなんてと
この持ち主はそして作者はきっと上で喜んでいることでしょうね

楽屋、床山から香る鬢の匂いは舞台へと心疼くものが有ります

髪は女の命
今も昔も女性の美を語る時には
必ず髪の描写が有りますね



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